トネリコの憂鬱

つつましやかに暮らしを綴る。好きなものを語る。時々、毒も吐く。地方住みアラサーの日々。映画と漫画がないと生きられない人生。

自分の中に毒を持て

 

 わたしの大好きなエッセイのひとつに、太陽の塔や「芸術は爆発だ」で有名な芸術家・岡本太郎の【自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか】がある。

一般的な哲学書自己啓発本のようなハウツーはこの本にはなく、平和ボケしたわたしたちの日常に、ある種の生命の根本というか…血まみれになりながらも自分を見つめるような、そんな魂の込められた渾身の一冊だ。本の一節にとても印象深く好きな言葉があって、

 

『 ぼくは“幸福反対論者”だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。

だが、人類全体のことを考えてみてほしい。たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言い出したらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる“しあわせ”ではあり得ない。

 僕は幸福という言葉は大嫌いだ。その代わりに、「歓喜」という言葉を使う。危険なこと、つらいこと、つまり死と対決するとき、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、そのとき湧き起こるのが幸せではなくて「歓喜」なんだ。』

岡本太郎/『自分の中に毒を持て あなたは"常識人間"を捨てられるか』】より


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 初めてこれを読んだとき、彼のあまりにも図星な言葉にハッとさせられた。

そもそも幸せなんて人間が作り出した概念で、地球上に生きる他の生物は幸せになろうだなんて考えていやしない。『幸せな人生を贈ろう』…って、誰が最初に言い始めたのかな。原始人なんか、毎日が生きるか死ぬかの日々で、食べ物の確保と繁殖することに必死で幸せになりたいなんて思いつきもしなかっただろう。

ところが現代人は頭脳をあまりにも発達させてしまい、豊かすぎる文明生活の味をしめた人間の哀しさが、ここにある。”幸せ”という甘い言葉に囚われている。自分も例外じゃない。

幸せになりたいと願うことはけっして悪いことじゃないけれど、それでも、信じていれさえすれば、何かしら行動したら必ずいつかは報われるか?…と言われたら誰しもがそうでもない気がするから(実際この世はあまりにも残酷で理不尽かつ不幸な出来事が多すぎる) だから最近はあまり、”幸せ”をという言葉を多用したくなくなってきた。あのブッダだって言っているのだ、生きることは苦行なのだと。

 …365日ポジティブでいられるなんて、不可能だ。それでもわたしはこれからも自分の中の毒を抱えつつみっともなく藻掻きながら、不幸せなことが多いこの世でも、光を見つけたい。そしてできる範囲で人生を愉快に過ごせたらいいと、そう思う。